「私」のこと「障害」のこと「私たち」のこと

昨日、偶然「障害者という呼称を考える」という記事に出会ったり
先日ふいに我が子が「健常児」と呼ばれることがあったりと、
リハビリの現場で働く専門家として、母として、「私」個人として
このポータルサイトをお送りするにあたっても思うところがあったので、
今日は「私たちの仕事」の話をしたいと思います。

リハビリの仕事をしていると、いわゆる「障害を持つ方」とたくさん出会います。

ひとえに「障害」といっても
病気や事故や何等かの原因で、それまで難なく行っていた動作が思うようにできなくなる方もいれば
生まれながらにさまざまな理由で、目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、身体を動かすことが難しかったり、
生きるために必要な、食べることや息をすることが難しかったり、
社会にうまく適応できないという悩みがあったり、

ここで書き出そうとしてもとても書ききれない本当に多種多様なかおをしています。

それに・・・

これは私たちが「できるのが当たり前」と思い込んでいるだけで、
本当はその一つ一つができることは「有り難い」ことなのに、

「そうでないこと」を「障害」と呼んでいいのか?
ここに今挙げた例を、本当に「障害の一例」と扱っていいのか? 

なんて、、、いまでも自分の判断を疑いながら、書いています。

そんな私の話なのですが、

「障害者」「健常者」という呼び方には、物心ついた頃からずっと“?”な違和感がいっぱいで、、、

同じ人間なのに? 別なの?? 何でみんなそんなに困った顔するの??
できなくて困ってるはずだから優しくしてあげなさいって??? この人は、かわいそうってこと??

私にだって困ってることたくさんあるけど・・・私は健常者なの?障害者なの?
健常者は大丈夫なの? 障害者だから大変でかわいそうなの? 

どこが「ちがう」のーーー???

と、幼心はかき乱されるばかり。。

周りの大人や学校の先生に「差別」と「区別」なんて言葉だけで教えられても
ちっとも理解できなくて、、、

確かに「目が見えるのが当たり前」「歩けるのが当たり前」「しゃべれるのが当たり前」が大多数な世界では
「見えない」「歩けない」「しゃべれない」となると「困る」し「戸惑う」わけですが、、、
それじゃあ、一対一で話したら、「しゃべれる人」と「しゃべれない人」・・・どちらが困ってる?

さぁ!この場合どちらが「障害者」なのでしょうか?!?!

なーんて疑問をずっともやもや胸に抱いたまま大人になり、、

気づけばこの職業を選んでいました。

大学で「コミュニケーション障害学」なるものを学び、言語学、心理学、発達学、医学の基礎知識など
たくさんを学び、、
「言語聴覚士(ST)」という「言葉の先生」「コミュニケーションの先生」国家資格を取得しました。

そうして、私の仕事は「コミュニケーションの先生」として
「話ができない」「人の言っていることが理解できない」「コミュニケーションに問題のある」人の
お手伝いをすることとなりました。

なったのですが!!!

立場上は、私は「話せる人」で「ことばのリハビリの先生」なのに、
言葉が話せなくなった患者さんを前にすると、“いつもと同じ方法”では、お相手には全く話が伝わらないのです。

何とか伝えなきゃ!と

絵でかいてみたり、言い方を変えてみたり、ゆっくり話してみたり、
ジェスチャーしてみたり・・・

わかんない。。どうしたらいいのか、まったくわかんないんです。
先生なのに。あんなに勉強したのに。「困っている人」を前にして、何の役にも立てないんです。

働き始めた当初は毎日「知らない国に飛ばされたみたい」な感覚になり、
「先生」なんて呼ばれるくせに、何にもできない自分の無力さや不甲斐なさに落ち込み、
「こっちが言語障害になったみたい」「ふつうに話せる人と話したい」
と、仕事がつらくて、、、ぐったりしていました。

おこがましくも「何とかしてあげたい!」なんて思いあがっていたんでしょうね。
自分でも気づかないうちに。

そんなST人生も10年を越え、結婚、出産を経験し、

仕事や育児を通じてさまざまな「障害」にぶつかり

「障害とは何か」「ふつうとは何か」に向き合い続け、

今になってやっと、一つ気づいたことがあるというか、、

あの時の自分が率直に感じた「あの感覚」

あれこそが答えの一つじゃないかなと思っていたりするのです。

「障害」とは

スムーズな世界の流れに、突然墜ちてきた隕石みたいなもので

その両側にいる人のどちらかだけが請け負うものではなくて、
どちらにとっても“扱いに困る「未知」のもの”で。

初めて出会うんだから、それはどちら側にいても
戸惑うし、慌てるし、不安だし。

そもそもどちらか片方のことじゃないし「人」じゃないんだから
「障害者」なんて誰かのパーソナリティとして呼称(総称)するような
一面的な使い方をするのはちょっと乱暴すぎるではないのではないでしょうか??

しかしながら

その隕石にあたって傷みを負う人もいて、、

その人はとても痛いかもしれないし、つらい苦しいかもしれない。
もしかしたら周りが思っているよりなんともないかもしれないし、
外からはかすり傷に見えても、見えない部分がものすごーーーく傷ついているかもしれない。
触らずにそっとしておいてほしいかもしれないし、今すぐ何とかしてほしい!って慌ててるかもしれない。

痛みを負った人の気持ちはその人にしかわからなくて、
その人を大切に思い心を傷める人の気持ちもその人にしかわからなくて

そういう痛みや思いを勝手に解かったつもりにならず
その気持ちに静かに寄り添う、、、そんな優しさはとても温かくて、大切で。

そんな誰かの優しい気持ちを請け負って、誰かの傷みに寄り添って

声を掛け合ってアイデアを出し合ってクリアしていけばよいものなんじゃないかなと思うんです。

そんな「未知」すぎて、誰かが一人では、どうしたらいいかわからずに困っている「邪魔な隕石」を、

確かな経験と知識を生かして

持てるくらいに軽くしてみたり、小さく砕いてみたり、梯子をかけてみたりして

「みんな」が受容できる程度に見せ方を変えて、「怖がらなくても大丈夫」って思えるように

攻略する方法や、クリアーするためのアイデアを、困っている誰かとともに考え、
同じ困り事に悩んでいる人たちに伝承して、

信頼できて協力しあえる仲間や情報を内からも外からも増やして

いつのまにか「障害だ」と思っていたものが障害じゃなくなっちゃう・・・

それをお手伝いできるのが、私たち専門家の仕事であり、

「専門家」と呼ばれる人の使命なんじゃないかって思うのです。

先に挙げた「障害」の例は、別に他人ごとでも特別なものでもなくて

育児の悩みや仕事の悩みも「誰でも」「このくらい」なものでもなくて

どちらも

自分ひとりで何とかしようなんてしなくてよくて、助けを呼べば手伝ってくれる人は必ずいる。

「障害」は誰かのことじゃなくて、自分の目の前にもあるモノなのかも?

なんて一人ひとりが思えたら、、、

そうやって自分のこととして誰かを思って、たくさんのアイデアを結集すれば

なくせる「ボーダー」はたくさんあるかもしれない。

One for All .  All for One.

そんな面白くてカラフルで温かい「ボーダーレス」な世界の“青写真”を描いています。

そんなことをふんわり諭してくれる一冊を最後に紹介します。

「ふつうって何だろう」と迷子になったら立ち寄ってみてください。

新しい視点に気づかせてくれるかも。

ヨシタケさん・・・私の目標です。

投稿者プロフィール

堀川 由樹子
堀川 由樹子
鹿児島県出身
広島県立保健福祉大学
保健福祉学部
コミュニケーション障害学科卒業
言語聴覚士国家資格取得
母親 9年生 (個性豊かな3兄妹と夫と暮らす)

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